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2005年05月28日

地球社会におけるシステム媒介統合の作用・・世界銀行の形成過程から

『神戸女学院大学論集』(第50巻第3号、2004年3月)

はじめに
 本論の問題意識は、戦後の世界銀行の機能の変化を事例としながら、国際社会の構造変化を「参加者の合理的利己主義に基づくシステム」と「社会連帯」という二つの関係のあり方の相克に注目しながら分析することにより、今後の地球社会の変化の可能性を展望することにある。


 ここでいうシステムとは、参加者が貨幣や権力など特定の形態の信号を解釈しながら合理的利己主義に基づき行動するための制度枠組みを指す。こうしたシステムとしては、市場経済システム、法システム、行政機構などがある。国際関係においては、国家という「対等な主権者」を規定し、相互関係を単純化する主権国家システムが基本構造となっている。システムの中で個人は比較的単純な信号に基づいて行動できるため、負担が軽減され、その結果、大規模な相互関係が構築される傾向がある。こうした特徴を持つ近代社会が世界的に広がったのは、さまざまな機能を果たすシステムが分化・生成され、個人の相対的な負担を軽減できたため、他の社会のあり方よりも機能的に優位に立ったことにあると考えられる。
 参加者の行動が予測可能で、安定したものとなるようなシステムの改変は、システムにとって合理的である。システムにとっての合理性は、システム参加者間の対立を調停するための基準となりがちであるため、システムの変化(改変や拡大)はシステムにとっての合理性を増す方向に動きがちである。このような変化は、必ずしも社会的な公正(公平さや人権の保障など)を実現するわけではない。ただ、民主的な諸制度が存在し、社会連帯に基づいた討議が行われる場が健全に機能すれば、「合理的」なシステムが生み出す社会的な矛盾を抑制・解決するための規制が法や政策に基づいて行われることになる。
 国際関係においては、主権国家システムの枠組みの中で交渉が行われ、システムの形成・改変が行われてきた。現在、旧社会主義国の市場経済化により市場経済システムの普及と相互連結は急速に進んでいるが、このことが国境を越えて生み出す社会矛盾を、連帯に基づいて抑制・解決するための制度も社会的条件も不十分である1 。だが、国境を越えた連帯に根ざし、地球的な社会問題を解決するための動きも、市民社会、マスメディア、国際機関などが織りなす地球的な公共圏の中で生み出されつつある。この動きはより「合理的」なシステムを作り出そうとする動きや、システムの中で合理的利己主義を追求する動きとの対立の中で影響力を持ちうるのだろうか?
 本論では、世銀の形成過程を題材にこの問いの検証のための準備作業を行う。以下、世界銀行の形成過程を、市場経済システムにとっての合理性、安全保障システムにとっての合理性、主権国家システムを維持するための合理性に注目しながら分析し、各主体の「合理性の追求」が社会矛盾を生みだしていった検証したい。

1 世界銀行をとりまくシステムの特性
 世界銀行2 は、国際通貨基金(IMF)、貿易に関する一般協定(GATT)とともに、戦後の自由主義経済を秩序づける制度的枠組みとして生み出された。この枠組みを作り出した原動力は、イギリスと米国の二国である。これは主として主権国家システムと市場経済システムの合理化を目指した動きであったが、後に安全保障システムの文脈でもある程度の役割を期待されるようになる。ここでは、まずこれらのシステムの特性を概観しよう。
 世銀の前提となっているのは、戦後の基本的な国際関係を規定している主権国家システムである。これは各国が法的に対等な主権国家であるという理解の下、その交渉により安定した国際秩序を形成することを目的とする。交渉の主体として承認されている主権国家は、国際法に違反しない限り独自の利益を自由に追求することが認められており、合意なく他国の内部に介入してはならないことされている。世銀やIMFは、主権国家システムの中でされた交渉により設立されたが、各国の原資払い込みの金額により意思決定権の比重が異なり、米国など先進工業国の意思が(とりわけ初期は)強く反映してきた。といっても、個々のプロジェクトの実施はあくまで対象国の合意が前提であり、主権国家システムに基づき行動している。
 安全保障システムは、世銀の行動に大きな影響を与えた。ここでいう安全保障システムとは、主権国家システムの中で国家が自国の安全保障のために他国と作る同盟や協力関係をさす。安全保障システムの中で行動する政府代表は、軍事力・経済力などを考慮しながら、他国との関係作りを行い、自国の安全保障を実現しようとする。基本的にアナーキーな構造を持つ現在の主権国家システムの秩序維持機能は限定的なので、安全保障は常に国家の重要な課題とされてきた。冷戦時には両陣営が勢力均衡に基づく安全保障戦略を採用、それぞれ自国の陣営に属するよう他国に働きかけることとなった。この結果、「国家間の連帯」に基づいて援助を求める発展途上国の要求が政治的な力を持ちやすい環境が生まれ、自由主義陣営が主導権を持つ世銀への資源提供もある程度確保された。世銀側も、こうした環境を活用し資源動員力の拡大を試みた。
 市場経済システムは、個々の参加者の経済活動を保証するための枠組みである。国内では公的機関による経済活動の保障、規制・監視や市場を支える社会的領域での活動(教育・医療など)によりその機能が保証される場合が多い。IMFは、各国家が国際的市場経済システムに参加する資格を担保する監視機構であると同時に、短期的な通貨融通を行い、貨幣の交換性を確保し、国際的な市場経済システムを支える。世銀は、当初は国際市場経済システムを秩序づける制度である以上に、市場の補完を行う主体という性格を強く持った。公的な裏付けを得つつも、世銀自体は、市場から調達した資金を主として用いて、融資を行うという市場の資源分配機能を果たしていたからである。とりわけ、国家への不信感が強かった設立当初の1940−50年代は、金融市場での信頼確保の要請が世銀の行動を強く規定していたため、融資対象プロジェクト自体の採算性が重視されていた3 。なお、1980年代以降、途上国の累積債務の解決が大きな議題となってからは、世銀はIMFとともに、構造調整融資を通じて国際的な通貨制度の機能を確保するという役割を担うようになる。
 このように、世銀は組織としては主権国家システムを基盤とし、資源は市場経済システムから獲得しながら、安全保障システム上の要請や市場経済システム上の要請に反応し、行動してきた。この過程で、官僚組織としての世銀は、自らの組織維持・拡大もはかっている。世銀の融資が引き起こした社会矛盾は、こうした複数のシステムの要請がもつ矛盾の現れであると同時に、個々のシステム自体の持つ社会的な非合理性の現れでもある。以下、世銀の発展の経緯をシステムの要請と矛盾の顕在化の過程に注目しながら検証する。

2 世銀の設立と初期の活動・・主権国家システムと市場経済システムの確立を求める動きの中で
 ブレトンウッズ体制などの戦後体制の構築を主として行ったのは、イギリスと米国である。早くも1941年にルーズベルト大統領とチャーチル首相が会談を行ったときに、戦後体制についての議論がされている。ルーズベルトは、戦後の平和を保障するためには自由貿易が不可欠であり、特別な貿易協定、とくに大英帝国と植民地のあいだに現在あるようなものは不要と主張、消極的なチャーチルを押し切って、大西洋憲章第4条において、「戦争が終われば、大国と小国とを問わず、戦勝国と戦敗国を問わず、すべての諸国は経済的繁栄に必要な世界の市場と原料資源に対して平等なアクセスをもつ」という原則を組み込んだ。
 こうしたルーズベルトの主張は、宗主国・植民地がブロック経済を形成し、国際貿易を収縮させ大恐慌をもたらした1930年代の経験の反省に基づいたものだった。この提案は、同時に打ち出された民族自決の原則とも整合性があった。民族自決は、各国が軍事力により植民地拡大競争を行うという本質的に不安定な国際関係に終止符を打ち、対等な主権国家の相互の合意により秩序形成を行う、より安定した「主権国家システム」の確立をめざしたものである。これが実現し、植民地解放が行われた場合は、宗主国・植民地の支配関係を失わせるので、資源・市場を権力により確保することは困難となる。その中で各国の経済活動を保証するためには、自由主義経済の原則が不可欠だった。すなわち、主権国家システムと国際的な市場経済システムの確立を同時に目指したのがこれらの提案であった。しかもこの提案はシステムにとって合理的であるだけではなく、米国の利害にもかなっていた。当時の米国の植民地は限られており、資源や市場へのアクセスが容易になる自由主義経済は、米国の国民経済にとっても不利になることはない提案でもあった。4
 世界銀行は、国際通貨基金(International Monetary Fund:以下IMFと略)とともにブレトンウッズ会議で設立が決められている。実は、ここでの議論の中心は国際通貨基金であり、世銀について議論に費やされた時間は短く、そのあり方について詳細な議論がされたわけではない。何にせよ、ここで採択されたIBRDの設立協定第一条では次の四つの目的を謳っている。1)生産的な投資を促進することにより復興と開発を支援すること、2)民間の外国投資に参加などすることによりそれらを促進し、民間の資金が入手できないなどでそれが必要な場合には、直接を資金を提供すること、3)長期的に収支のとれた国際貿易を、生産的な国際投資を奨励することにより促進すること、4)他の国際的な借款に関連した形で借款・保証を提供することにより緊急なプロジェクトが優先的に扱われるようにすることである。
 目的の一条で「復興」と「開発」の両者が記述されたが、実際に設計者たちの念頭にあったのは、主として復興であった。とりあえず、国際的な市場経済システムが機能するためには、それぞれの主体が健全に活動できなくてはならず、戦争により破壊された生産力を回復することが国際的な市場経済システムの機能のためには不可欠であった。市場経済システムを通じて既に深く連結されている地域の復興は、米国の利益にもつながるとされた。世銀には主としてヨーロッパ復興への貢献が期待されていたのである。「開発」が組み込まれたのは、長期的な市場経済システムにとっての合理性を設計者たちが評価したということ及び、中南米など途上国もブレトンウッズ会議に参加していたため、こうした国々への配慮が必要であったということによる5 。
 欧州の復興が米国にとって重要な課題であるとしても、そのための方法として、「投資の促進」など間接的な方法にとどまっていたのはなぜなのか?税金の投入ではなく、自己の利益を追求する主体からなる「市場」から、復興や開発という目的に資金を導入するという考え方が採用されたのは、もちろん国境を越えた連帯が十分に存在していなかったためであろう。とりわけ、この段階では他国を支援できる余裕を持つのは米国だけであり、国内指向の強い議会が歳出の決定権を持つ米国政府には、これ以上のことはできなかった6 。
 このような枠組みの中で構想された世銀は、設立後は市場経済システムの中の一つの主体として行動することが期待された。1960年に国際開発協会(IDA)が設立されるまで、世銀の資金は、世銀債を通じて市場から市場金利で調達されていた。世銀が通常の銀行と異なるのは、政府の名目的な払込資金により債券が保障されていたこと、配当を株主に支払う必要がないということの二つである。世銀は、財政的な余裕を用いて、多くのスタッフを雇用、借り入れ国の指導や市場への情報提供を行うことにより、借り入れ国の借り入れ能力を補強するという市場補完的な役割を果たすこととなる。
 なお、当初の目的であった欧州の復興は、市場ベースの金利で資金調達を行う世銀の手には余るものだということがすぐ明らかになった7 。資金源であったウォール街では、1930年代の国家債券のデフォルトの記憶が新しく8 、政府に貸し出しを行う世銀への信頼も低かった。結局、欧州への大規模な資金投入は、米国政府単独の援助計画であるマーシャルプランを待つこととなる。1947年に提案されたマーシャルプランは、冷戦の深まる中で、欧州の経済的な混乱がソ連陣営に利するという米国の安全保障上の考慮にもとづき1948年に承認されている。
 世銀の意思決定者(総裁、および各国政府の払込資金に応じて投票権を持つ理事)は、1949年から残された領域である「開発」にとりくむことを選択していく。理事の中には途上国の代表もおり、さらに協定に目的として書き込まれている以上、そのことには形式的には問題はなかった。しかし、資金はあくまで市場から調達することされており、当時の市場環境の中で、そのとりくみは限られたものとならざるをえなかった。借り手である国家への信頼がないため、金融市場関係者の信認の獲得が優先され、確実に投資回収が見込めるプロジェクトを特定して融資するという方法がとられたのである9 。1950年代ですら、市場の信用を確保するため、世銀の供与した資金の43%はヨーロッパ、オーストラリア、ニュージーランド、日本などの国に向けられていた。
 世銀の設立時の中心的な課題は、市場経済システムの中で深い相互依存関係にあった主体の生産力強化により、市場システムの健全な機能を実現することであった。だが、主権国家システムの維持の必要性から途上国の意見も考慮に組み込まれ、「開発」という普遍的な目的も世銀に規定されることになる。「復興」が手に余ると認識した世銀経営陣が、組織維持のため「開発」に軸足を移しつつ、市場にとって合理的とされうる範囲内で活動していたのが設立時から1950年代の世銀であった。
 
2 IDAの設立からマクナマラによる世銀拡大・・冷戦下の「国家の連帯」
 世銀の開発へのとりくみへの期待は少しずつ高まる。その背景には、冷戦による東西陣営の援助への関心の増大と、途上国の独立、国連への参加がある。冷戦の中では、自陣営への支援確保の重要性が増し、途上国の主張を無視しにくくなる。とりわけ、国連機関においては、途上国の意見を無視できなくなってきた。この結果は、1960年の国際開発協会(International Development Association: 以下IDA)の世銀グループ内での設立につながる。手数料だけで無利子の融資を行うIDAは恒久的に資金の注入を必要とする機関であり、途上国に資金を供与する援助機関としての側面を持つ。こうした資金の使途については市場性についての評価はさほど重要ではなくなるため、政治的な判断で融資先を決定できるようになった。これにより、世銀は主権国家システムにさらに深く組み込まれていくことにもなる。
 IDAのような資金供与機関を求める声は、すでに1940年代末からあがっていた。1949年の国連経済社会理事会では、途上国向けに低金利での資金供与を行う国連経済開発局(UNEDA)の設置を求めるレポートが出された。さらに1952年には、国連総会で第三世界の経済開発のための特別基金の設置を求める提案が採択される。その提案は、低開発国への技術援助の提供、技術・物資の調達の支援、緩い条件での貸付などを行うことを想定したもので、内容的には後に生み出されたIDAとよく似ている10 。
 当初、こうした国連を中心とする動きに米国は反対をする。しかし、冷戦の中で途上国を自由主義陣営つなぎとめるためにも、西側諸国が何もしないわけにいかなかった。この時期は、ソ連が非常に譲渡的な条件で第三世界に融資を行っており、それに対抗する必要もあったのである11 。しかし米国一国でそれを行うのは荷が重い。だが国連内に設置すれば、費用負担を行う米国などの意見が通りにくい。このため、世銀内にIDAを設置するという決定を選んだのである。
 世銀を「単なる銀行」から開発金融機関へ変える動きに対して、当時の世銀総裁は当初反対した。ブラック世銀総裁(Eugene Black、在任期間1947年〜1962年)は、1960年のオックスフォード大学での講演で、「外交的な譲歩や軍事的な同盟との交換で経済援助を提供する外交官や軍事戦略家は、秩序だった経済発展に益するわけではない」と発言している12 。金融市場に対して世界銀行が信用できる投資先であることを確信させることに力を注いできたブラック総裁としては、市場経済システムの合理性に反した判断を行う可能性のある機関となることには抵抗があったと考えられる。さらに、資金供与のみで開発の問題が解決できるという考え方に対しても批判的であった13 。しかし、世界銀行はあくまで国際機関であり、最終的な発言権は過半数の株を占める米国にあった。結局、議会の後押しを受けた米国政府の案が通り、IDA設立が進められた。
 この制度改変は、市場経済システムにとっての合理性(市場経済の途上国での健全な発展)を主要な目的としていたわけではない。先進工業国にとっては、自陣営の立場を強化するという安全保障システム上の合理性を求めた行動であった。制度改変を要求した途上国にとっては、先進工業国に対して国境を越えた連帯を求めることにより、政府に資金提供をさせるためのものであった。途上国政府の利害が、西側諸国の安全保障の必要性と一致したため、この提案は出資国側に受け入れられたのである。このような安全保障システム上の要請に西側諸国が反応する中で、世銀は市場経済システムの一主体から、政治的な意思に基づいて行動する開発機関へと変容していく。
 世界銀行の開発機関としての性格を強化しようとしたのが1968年より総裁の任についたマクナマラ(Robert S. McNamara、在任期間1968〜1981年)である。マクナマラは、強力な使命感をもって世銀の運営に取り組み、より主体的に開発に関与しようと試みた。この際、マクナマラは、次のような二つの理解にもとづいて行動している。第一は、各国の国内の安定を安全保障上の課題として認識し、貧困をその原因としたことである14 。安全保障を外交的/軍事的な側面に還元し、援助を「外交的な譲歩や軍事的な同盟」を獲得する通貨としてとらえがちだった「外交官・軍事戦略家」と異なり、国内の経済問題にも関心を払ったという意味では、マクナマラは単純な安全保障システムの枠組みを越えた発想を行った。第二は、貧困解決のためには、世銀の提供する資金の額が重要な意味を持つと考えたことにある。着任して半年後の1968年9月に、マクナマラは理事に対して「今後の5年間でこれまでの5年に行った融資の二倍の金額を支出することが望ましい」と報告し15 、事実、世銀の融資規模は急激に拡大した16 。このため、マクナマラは、世銀のIDA資金だけではなく、通常の世銀債を通じて市場から調達する資金も拡大し、調達先もニューヨークだけではなく各国の金融市場に積極的に働きかけ拡大していく。
 こうしたマクナマラの変革を可能とした構造的な条件としては次のようなものがある。
 第一に安全保障システム上の必要性の認識がたかまったことである。この時期は、ベトナム戦争、ソ連のアフガニスタン侵攻等を通じて、冷戦が顕在化した時期である。ドミノ理論で予言された共産主義の拡がりをくいとめるために、貧困解決と資金提供により西側陣営の拡大を行うべきであるという主張は、世銀を支える政府に訴求力をもっていた。安全保障システムの中での世銀の地位が高まっていたのである。
 第二に、資金供与側の市場環境の変化がある。1973年のオイルショック以降、産油国で投資しきれなかった資金が先進国の金融市場に還流、投資先を求める資金が余っていた。国家デフォルトの記憶は薄れ、世銀のそれまでの実績に対する評価も相まって、この時期は世銀債発行による資金調達は比較的容易なものとなっていた。市場経済システムの中での世銀への期待も高まっていたのである。
 
3 世銀の融資がもたらした経済的・社会的影響
 世銀が開発面でどのような効果をもたらしたかについては、さまざまな評価があり得よう。ただ間違いないのは、総合的な評価はなんであれ、相当数の問題プロジェクトを引き起こし、多くの国の経済構造に否定的な影響をもたらしてきたということである。その直接的な理由には、受け入れ国政府に起因するものと、世銀の方針に起因するものと両方がある。さらに、こうした問題の改善を困難にした構造的な要因もある。これらの問題を概観した後で、これらがシステムの特徴とどのように関わっているのか整理しよう。
 まず、そもそも外貨立ての融資により開発を行うという世銀の性格自体に限界がある。世銀は贈与機関ではなく、あくまで金融機関である。融資を受ける国は、ドル建ての返済を求められる以上、輸出を行うことにより国際的な市場経済システムに積極的に参加するしか手だてはない。融資を受けるということは、国際的な技術や知識、資源へのアクセスを意味するが、NIES諸国のようにそれらを十分に使いこなし輸出(=外貨獲得)につなげる用意のできていた国々を除けば、債務の返済が大きな負担となって残ることになる。国境を越えた連帯が欠如している中で、税金からの支出がされなかったなかの便法として選ばれた「融資による開発」という世銀の戦略はしばしば失敗し、重債務国を生みだした。これは、マクナマラ時代の融資金額優先の組織運営の中でとりわけ顕著に見られる。マクナマラの「資金投入額が大きければ貧困が解決できる」という根拠のない確信が、この問題を悪化させたのである。
 本来、市場経済システムにおいては、融資者が相手のリスクを個別に評価し、適切な資金提供を行うべきである。しかし世銀を介し先進工業国により保障がされていたこと、資金が余り借り手市場となっていたため安易な貸し出しが行われたこと、国家全体の経済発展の評価が困難であったこと、とりわけ外貨獲得能力への貢献度の評価が困難であったことなどにより、市場経済システムの本来の機能は働かなかった。世銀の専門家たちを信頼することは、出資国政府、途上国政府、市場関係者のすべてにとって都合の良い方法であった。結果的に多額の債務を抱え、返済能力を示せない国に対しては、緊縮財政と輸出優先の産業政策を条件として追加の融資を行う構造調整融資が行われることとなる。いわば、領域内の資源全てを活用し外貨を獲得することを優先するよう求められたのである。この結果、医療、教育、食糧など多くの面での困難を市民にもたらし、基本的な社会的・経済的権利の侵害状況さえ生みだした17 。
 世銀が融資した個別のプロジェクトなども、問題を引き起こしている。世銀は当初より道路建設などの多くのインフラ整備や電源開発プロジェクトに融資を行っている。すでに述べたように、こうしたプロジェクトは当初は、市場性の評価を行いながら慎重に行われたはずだったが、自然環境の破壊、保健の状況、立ち退きなどにともなう社会影響などの外部不経済は計算に組み入れられていなかったため、結局大きな問題を引き起こしている。こうした例は、エジプトのアスワンダムなど枚挙にいとまがない。市場の信認の確保を優先したプロジェクトが選ばれたブラック総裁時代の21の主要プロジェクトの大半は、深刻な社会・環境への影響を引き起こしている18 。貧困解決を訴え、農村開発などへの融資も増えたマクナマラ総裁時代は、融資実績が世銀職員の評価基準とされたため、むしろさらに多くの質の悪いプロジェクトに融資が行われている。
 問題プロジェクトが実施された直接の理由は、世銀の技術的、経済的な判断ミスであったり、借り入れ国政府の無責任さであったりする。だが、これらの問題は個別の技術レベルの問題というよりも、プロジェクトの問題を防ぐことが困難な状況があったため必然的に生まれたと考えるべきであろう。
 世銀は、基本的には主権国家システムの中で行動するため、プロジェクト実施のさいに相手国の責任範囲とされる立ち退きなどの問題に関与することはなかった。とりわけ、安全保障システムの影響が強かった冷戦下の世銀は、自由主義陣営への支援獲得も目標の一つであり、とりたてて問題を明らかにするインセンティブは働かなかった。相手国政府が、国内の社会矛盾に対応し行動を変える体制を有していれば問題は事前に防げたり解決できたりしたかもしれないが、世銀の融資対象は、軍事政権下のブラジル、スハルト大統領支配下のインドネシア、マルコス支配下のフィリピン、ニエレレ大統領下のケニアなどの権威主義的な国であった。こうした国では、計画通りに事業実施することはできるかもしれないが、否定的な影響を受けた住民の意見は反映されない。
 世銀が誤った政策を提案し、それを無批判に相手国が受け入れた結果問題が起きた場合もある。一部の輸出産業振興策などである。本来は、世銀は内部に専門性を獲得することにより、市場への適切な情報提供を行い資金の適切な運用を行うべきだったのだが、世銀自体に対する先進国の拠出による保障、相手国政府も世銀への資金返済を優先するとりきめがされていたなど、主権国家システムの中で資金の保障がされていたため、経済的なリスクはなかった。しかも、借り手の政府には十分な専門知識がない場合は、世銀の提案を無批判に受け入れるしかなかった。権威主義政権であれば、こうした資金導入に対する批判はありえなかったし、そうでない場合も資金導入時は国内の納税者に負担をかけないため、受け入れ国国内での詳細な検討はされなかった。世銀の内部でも、マクナマラの方針に基づき資金供与の額を競う世銀スタッフは、案件の質について検討するインセンティブは働かなかった。そもそも資金供給圧力の強い金融市場では、案件の適切な審査に失敗しがちだが、世銀は国家の保障によりリスクが回避されていたため、安易な資金投入先となった。

4 まとめ・・世銀の成立・変容とシステムの影響
 世銀は、戦後の西側の秩序の一部として設計されたが、当初想定されていた中心的課題は、すでに深く相互依存関係にあった市場経済システムの主体の健全化(すなわち戦後復興)であった。しかし、主権国家システムの維持のための途上国との妥協や米国の自国の支持者確保などの意図もあって、中小国の課題である「開発」も目的に組み入れられる。現実に復興に関与する力がなかった世銀の経営者や理事は、結果的に組織の維持のため、開発に焦点を当てて活動するようになる。世銀は、オイルダラーの先進国への還流などの時代的な背景の中で、途上国を急速に国際的な市場経済システムに統合していくことにつながった。だが、システムの制約(安全保障が主たる問題であり対象国の政府の支持を獲得することが中心課題とされたこと、各国内部の社会統合の問題に対する理解がなかったこと、主権国家システムの中で国内の「政治的要素」についての介入ができなかったこと)と世銀組織の問題(国際経済や開発過程についての理解の欠如、融資額によるスタッフの評価)などからこうした市場経済システムへの統合は歪んだものとなる。この結果生まれた社会矛盾を修正するという動機付けは、受け入れ国の指導者にも、主要理事国にも存在していなかったため、問題は予防も解決もされることはなかった。その結果が、累積債務や個別プロジェクトによる社会・環境破壊の顕在化につながっていく。
 この時期は、冷戦を一つのきっかけとし、地球社会のシステム媒介統合が、途上国の西側の安全保障システム及び市場経済システムへの統合という形で進められた時期であった。安全保障システムに基づき、途上国政府の懐柔と自陣営への引き込みが優先課題とされ、資金が余っていた市場経済システムの中で、先進国の保証付きの世銀融資は格好の投資先とされた。世銀の組織文化がもたらした融資額競争と相まって、貧困解決により社会的な危機を回避しようとしたマクナマラの意図と反する結果が、各地で生まれていくことになっていくことになったのである。
 しかし、こうした社会的な危機は、途上国における抵抗運動につながっていく。これらの社会運動は、世銀の融資業務実施の障害となると同時に、安全保障システム上の問題ともなるため、世銀内部でも解決・予防すべき課題と認識されるようになっていく。さらに、1980年代に入って、こうした運動と連携した環境団体、人権団体、先住民族支援団体が国際的なキャンペーンを開始し、各国のメディアや議会において議題化されていった。このことが、世銀改革に対する圧力を生み出していくことになるのである。


abstract
The Impact of System Integration in the Global Society: From the Case of the Formulation and Transformation Process of the World Bank Group

This article is aimed at analyzing the dynamism of the global society by focussing on two modes of integration: system integration based on the actors' rational/self interest and integration based on solidarity. Actors in the system act based on their self interest as judged by the signals conveyed in the system in a way specialized in the system. Regimes to facilitate the integration through the systems were negotiated in the nation-state system and resulted in interconnected world. However, these interconnectedness does not guarantee social justice as it is based on the rational/self-interest. In this article, the World Bank is studied to analyze how such a connection is created by looking at how the motivation of the concerned parties are controlled by the systems, such as security system, nation-state system, and market system.

1 Jurgen Habermas, "The European Nation-State: On the Past and Future of Sovereignty and Citizenship", in Jurgen Habermas (edited by Ciaran Cronin and Pablo De Greiff), The Inclusion of Others: Studies in Political Theory (MIT Press, 1998), pp. 120-121, Shaw, Martin Global Society and International Relations (Cambridge: Polity Press, 1994)

2 なお、正確には当時の世界銀行の名称は、国際復興開発銀行(International Bank for Reconstruction and Develpment: IBRD)だが、後に述べる国際開発協会も統一的に運営されており、本稿ではこれらをあわせて世界銀行と呼んでいる。

3 Devesh Kapur, John P. Lewis, and Richard Webb, The World Bank: Its First Half Century Vol.1 History (Brookings Institution Press, Washington, DC, 1997), pp. 88-89

4 もちろん、この新しい国際経済・政治秩序は、植民地に深い利害関係を持つものにとっては不利なので、変化は簡単には進まなかった。だが、旧来の権力による支配は、社会統合を生み出すことはなく、支配のためのコストは高まる。このため植民地の独立は進行し、現在では地球上のほぼ全ての地域が主権国家システムに覆われている。

5 Devesh Kapur, John P. Lewis, and Richard Webb, The World Bank: Its First Half Century Vol.1 History (Brookings Institution Press, Washington, DC, 1997), p. 60

6 実際、世銀やIMFという比較的政府の負担の小さい国際機構の設置、加盟についても強い反対が存在していた。このため、政府は世銀協定を上院の2/3の賛成の必要な条約ではなく、過半数で採決できる行政協定と位置づけにした上、国民の支援をえるために広告会社と契約し、全国的なキャンペーンすら行っている。See, Catherine Caufield, Masters of Illusion : The World Bank and the Poverty of Nations (Henry Holt and Company, 1996), pp. 44-45.

7 例えばIBRDの1947年の年次報告書は、ヨーロッパの復興がブレトンウッズで想定されていたよりもはるかに困難であると指摘している。International Bank for Reconstruction and Development, Second Annual Report to the Board of Governors for the Year Ended June 30, 1947, p. 7.

8 Devesh Kapur, John P. Lewis, and Richard Webb, The World Bank: Its First Half Century Vol.1 History (Brookings Institution Press, Washington, DC, 1997), p. 77参照。

9 BRDの融資活動は金融市場の信認を獲得し、1959年までには、トリプルAの評価を得ている。Devesh Kapur, John P. Lewis, and Richard Webb, The World Bank: Its First Half Century Vol.1 History (Brookings Institution Press, Washington, DC, 1997)。まさに当時の世界銀行は開発機関というよりも「単なる銀行」であったといってよい。Devesh Kapur, John P. Lewis, and Richard Webb, The World Bank: Its First Half Century Vol.1 History (Brookings Institution Press, Washington, DC, 1997)。もちろん主として国家相手に融資をするので、政府に対する信頼が十分あれば利益の上がる「プロジェクト」にこだわる必要はないのだが、実績が十分積み重ねてられない設立当初は、「具体的な利益の上がるプロジェクト」を見せることにより金融市場関係者の信頼を獲得するという意図もあった。

10 本間雅美『世界銀行と南北問題』(同文館、2000年)151-154頁参照。

11 前掲、115-116頁。

12 Devesh Kapur, John P. Lewis, and Richard Webb, The World Bank: Its First Half Century Vol.1 History (Brookings Institution Press, Washington, DC, 1997), p. 136.

13 Jochen Kraske et. al., Bankers with a Mission : The Presidents of the World Bank, 1946-91 (Oxford University Press, Oxford, 1996)esp. Chap. 3.

14 Jochen Kraske et. al., Bankers with a Mission : The Presidents of the World Bank, 1946-91 (Oxford University Press, Oxford, 1996), p. 168

15 ibid. p. 172

16 マクナマラが就任する前の22年間(1947年〜68年)で、世銀は708のプロジェクトに対して総額107億ドルの融資を与えていた。マクナマラが総裁に就任した後は、第一期(1968〜73年)だけでも、新規760件、134億ドルに達した。スーザン・ジョージ、ファブリッチオ・サベッリ『世界銀行は地球を救えるか  開発帝国五〇年の功罪』(朝日新聞社、1996年)、52頁

17 人権と構造調整の関係については、国連人権委員会でも議論されている。See, UN Doc., E/CN.4/1997/WG.17/2, Implementation of Commission on Human Rights Decision 1996/103 entitled "Effects of Structural Adjustment Policies on the Full Enjoyment of Human Rights": Compilation of comments on the preliminary set of basic policy guidelines (ECOSOC, 4 February 1997)

18 Catherine Caufield, Masters of Illusion : The World Bank and the Poverty of Nations (Henry Holt and Company, 1996)

投稿者 sustena : 2005年05月28日 15:35

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